本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史中世編(後藤武士)3」

イスラム教の始まり
東西交易の中継地として栄えたメッカに570年頃に生まれたのが創始者ムハンマド。瞑想中ジブリールからアッラーの教えを広めよという啓示を受ける。妻ハディーシャに支えられ預言者を自覚する。理解者の叔父と妻が亡くなった後はメディナへ移動しムスリム共同体ウンマを設立。この出来事を聖遷(ヒジュラ)と呼び622年7月16日を紀元1月1日とするのがイスラム暦メディナで力を付けたムハンマドはメッカを無血占領。異教徒は殺され多神教カーバ神殿イスラムの神殿となりメッカは聖地となる。

 

 

イスラムの教え
六進五行。アッラー、天使、啓典、預言者、来世、天命の6つを信じる六進。信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼の5つの行いをする義務が五行。最も重要なのがムハンマドが神に預けられた言葉をアラビア語で記したコーラン。聖書等も認めている。

 

 

正統カリフ時代632〜661
後継指導者をカリフと呼び、聖戦(ジハード)を繰り返し領土を拡張した。二代目ウマルは東ローマ帝国からシリア・エジプトを、ササン朝ペルシアをニハーヴァンドの戦いで破りイラン・イラクを征服した。アラブ人のムスリムを優遇し、人頭税ジズヤ・地租ハラージュを適用。三代目ウマイヤ家出身のウスマーンコーランを今の形に編纂。四代目アリーはムハンマドの従兄弟でムハンマドの娘ファーティマの夫であったから義理の息子でもあった。ここまでが正統カリフ時代。後に大分裂。三代目を殺したのがアリー派だったのでアリーを嫌っていたウマイヤ家のムアーウィヤはアリーに戦いを挑む。アリーは勝てたのに和睦したのでそれを批判するハワリージュ派に殺された。アリーの血統重視がシーア派。主流の穏健派が十二イマーム派、過激派がイスマーイール派。最高指導者はイマーム。今のイスラム教の1割。9割は代々のカリフをムハンマドの後継者と認めるスンニ派

 

 

ウマイヤ朝661〜680
ムアーウィヤが立てた。二代目ヤジードはアリーの子でイマームだったフサインをカルバラーの戦いで殺す。シーア派に重要な事件「カルバラーの悲劇」。カルバラーはシーア派の聖地となり殉教の日はアーシュラーと呼ばれる。
五代目マリクで立て直しと領土拡大。アラビア語公用語に。エルサレム岩のドーム建設。カーバ神殿ムハンマドの廟である預言者のモスクに次ぐイスラム教大三の聖地。六代目ワリード1世でイベリア半島まで支配する最大領土。その後のウマル2世は名カリフ。アラブ人以外のイスラム教徒への差別とマワーリー(他信教徒)への差別を撤廃。それまでのコーランか剣か→コーランか剣か貢納か。10代目の時にカールマルテル率いるフランク王国にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れ衰退する。ムハンマドの子孫のアッバース家によりアッバース革命が起きる。

 

 

アッバース朝750〜1258

アラブ人でなくともイスラムスンニ派であれば良い。イスラム帝国イスラム法。唐とのタラス河畔の戦いで捕虜から製紙法が伝わる。2代目で首都をバグダッドにする。五代目ハールーン=アッラシード王で最盛期。アラビアンナイト千夜一夜物語。その後衰退。
知事アミールが力を持つようになる。チュニジアにはシーア派過激組織イスマーイール派によるファーティマ朝909〜1171創設。首都をカイロにしてイスラム文化の中心に。
イベリア半島コルドバウマイヤ朝の生き残りが後ウマイヤ朝創設。
共にカリフを名乗るようになり、カリフが3人になる。さらにシーア派穏健派十二イマーム派ブワイフ家がブワイフ朝を興し大アミールを名乗り、預言者代理人ではなく神の代理人であったアッバース朝カリフの権威は地に落ちる。

 

 

トルコ人勢力台頭
軍人奴隷マムルークとして使われていたトルコ人が独占するようになり中央アジアにカラハン朝を興す10世紀~12世紀 セルジューク朝や西遼に吸収される
アフガニスタンのガズナに出来たのがガズナ朝962~1186 セルジューク朝ゴール朝に滅ぼされる

 

 

セルジューク朝1038~1194
トルコ人のトゥグリルベク これより先、スンニ派王朝君主は「世俗の君主」スルタンの称号を用いるようになる。二代目アルプ・アルスラーン東ローマ帝国に勝利するこれが後に西ローマ帝国への援軍要請、十字軍派遣となる。宰相ニザームアルムルクはイクター制という軍事を整備する。文化や学芸も保護。スンニ派学院マドラサなど。
三代目マリク・シャーが最盛期。この後衰退し、地方政権乱立。マンジケルトの戦いをきっかけにルーム・セルジューク朝、シリア・セルジューク朝ケルマーンセルジューク朝など

 

 

エジプトのイスラム王朝
エジプトにクルド人武将サラディンアイユーブ朝1169~1250設立。十字軍からエルサレム奪還、3回の十字軍に耐える。後の十字軍との攻防で消耗し先代スルタン未亡人にマムルーク朝を設立される。首都カイロはイスラムの中心となる。後にオスマン朝に滅ぼされる。

 

 

アフリカとイベリア半島イスラム諸国
エジプト以外の最古のアフリカの王朝がクシュ王国。その後メロエ王国、アクスム王国。西アフリカにガーナ王国。11世紀に北アフリカベルベル人ムラービト朝。この頃からアフリカのイスラム化。イベリア半島ではイスラムを追い出す国土回復運動レコンキスタが起きる。アフリカでもムワッヒド朝に滅ぼされる。イベリア半島最期のイスラム王朝グラナダナスル朝1232~1492 アルハンブラ宮殿
西アフリカにマリ王国やソンガイ王国、東の港湾都市ムスリム商人との貿易拠点となりスワヒリ語公用語に。

東南アジアマレー半島マラッカ王国イスラム

 


インドのイスラム
ガズナ朝とゴール朝が北インドに侵入してきて奴隷王朝が設立される。ここからデリーを本拠地としたイスラム王朝が五代続く。デリー・スルタン朝1206~1526

 

 

イスラム文化
都市を中心に発展。モスクやマドラサ神秘主義スーフィズム発達。歴史学者イブンハルドゥーン。ギリシャ語文献輸入によりアリストテレス哲学発達。千夜一夜物語。詩人ウマル・ハイヤーム。ムスリム商人の旅行家イプンバットゥータ。細密画や装飾アラベスク。ゼロの概念導入によるアラビア数字。医学でイブンシーナー、イブンルシュド。

 

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史中世編(後藤武士)2」

隋・唐の巨大帝国と東アジア

 

 

隋581~618
北周の家柄の楊堅が皇帝文帝となる。後漢以来400年ぶりの統一王朝。
科挙、均田制、租庸調制。
二代目煬帝が悪政。大運河設立。高句麗遠征失敗。

 

 

唐618~907
初代皇帝は李淵、二代目太宗(李世民)が名君で「貞観の治」と呼ばれる。三省六部の整備。御史台設置。律令格式整備。東突厥を破る。三代目高宗は高句麗を破り安東都護府設置。

 

 

武韋の禍
高宗の王皇后と側室を残酷に殺したのが則天武后=武則天。高宗死後自ら皇帝となる。息子の中宗が奪うも妻の韋后に殺される。排除したのが玄宗
玄宗の治世前半は「開元の治」と呼ばれる善政、後半は暗愚。きっかけは楊貴妃。府兵制が崩壊して募兵制となり指揮する節度使が力を持つ。楊一族が権力を独占するようになり反乱したのが安禄山安史の乱。鎮圧のために異民族の力を借りて唐はさらに弱体化。各地で半自律勢力の藩鎮ができる。
増税となる両税法と塩の専売制を開始したことで密売マフィアが生まれ、王仙芝が反乱を起こす。黄巣の乱。それを鎮圧した朱全忠の梁から王朝が乱立する。五代十国時代907~979

 

 

唐の文化
世界最大の都市、長安玄奘や義浄が新しい仏教を伝える。天台宗真言宗禅宗や浄土宗も。キリスト教異端ネストリウス派景教
ゾロアスター教マニ教イスラム教も。ササン朝滅亡によるイラン人移住でポロや唐三彩などのイラン風文化も広まる。
港は揚州や広州、ムスリム商人。外国人官僚の阿倍仲麻呂儒教学者、孔穎達。科挙の初期は漢詩が重要。李白杜甫白居易。古文で韓愈や柳宗元。書画で呉道玄や顔真卿

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史中世編(後藤武士)1」

中世ヨーロッパ社会

 

ゲルマン人の大移動
アジア系遊牧民族フン族の西への移動によりゲルマン人が押し込まれて4世紀後半大移動を始める。東ゴート人は東欧あたりに移動、西ゴート人はフランス南部トゥールーズあたりで西ゴート王国を建国。ヴァンダル人は北アフリカヴァンダル王国、ブルグント人はフランス南部にブルグント王国(後のブルゴーニュ)、フランク人はフランスあたりにフランク王国ランゴバルド人は北イタリアにランゴバルド王国(ロンバルディア)、アングロサクソン人がイギリスでアングロサクソン七王国を建国。
アッティラ率いるフン族西ローマ帝国に敗れる。476ゲルマン人傭兵オドアケルによって西ローマ帝国は滅びる。東ローマ帝国にも手を出そうとしてきたので東ゴートのテオドリック大王に討伐してもらって東ゴート王国を建国させてやる。
これらのゲルマン人王国もフランク王国を除いて⒍7世紀に滅亡。
フランク王国は正統派のアタナシウス派への改宗が大きかった。メロヴィング朝のクローヴィスが統一するも宮宰のカロリングカール・マルテルイスラム帝国をトゥール・ポワティエ間の戦いで勝利すると実権を握る。息子の小ピピンからカロリング朝になる。教皇の要請でランゴバルドを討って寄進する教皇領が始まる。

 

 

教会の発展拡大
教会五本山はローマとコンスタンティノープル以外がイスラム領土となり2つの争いがおきる。西=ローマ・カトリック教会、東=ギリシャ正教会。6世紀にベネディクト派修道院グレゴリウス1世によりゲルマン人の多くが改宗する。
偶像崇拝を巡り東西対立。東ローマ帝国皇帝レオン三世により聖像禁止令。

 

 

カールの戴冠
ピピンの子、カール大帝ローマ教皇との結び付きを強め西ヨーロッパをフランク王国として統一。ローマ教皇レオ3世が帝冠を与えたのがカールの戴冠。ほぼ遠征して戦いの人生。文化への理解。ラテン語の普及など、カロリングルネッサンス

 

 

フランク王国分裂
カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世の4人の息子による争いで三分割。ヴェルダン条約により、ロタールの中部、ルートヴィヒの東、シャルルの西に分かれる。メルセン条約により東、西、イタリアになる。

三王国その後、神聖ローマ帝国
東はカロリングの血途絶えて、フランケン公コンラート1世→ハインリッヒ1世(マジャール人との休戦、ロンギヌスの槍をもらう)→オットー1世(マジャール人を討ち英雄とされ帝冠をうける。)神聖ローマ帝国962~1806 東フランク王国=神聖ローマ帝国
西はカロリングの血が987から途絶えてユーグ・カペーのカペー朝フランス王国と呼ばれるようになる。
イタリアは1番早くカロリングの血が途絶えて都市の強い国となり統一が遅れる

 

 

ノルマン人の攻勢
ゲルマン人より500年遅れて9世紀頃南下してロシアあたりにノヴゴロド国862~1478とキエフ公国9~13世紀
ノルマン人ロロがフランスに侵入、単純王シャルル三世はノルマンディー地方を与えてノルマンディー公国設立。
イギリスは9世紀にサクソン人のウェセックス王国イングランド統一。ノルマン人(デーン人)も侵攻してきて撃退したのがアルフレッド大王。1016デーン人クヌート王がイギリスを支配。一時、アングロサクソン系が復活するも1066ロロの流れのノルマンディー公ウィリアムがノルマン王朝を打ち立てる。征服王。フランス王の家臣ノルマンディー公がイギリスを支配したので現在に及ぶライバル関係に。
両シチリア王国フィンランド以外の北欧。

 

 

中世ヨーロッパ封建社会
双務的契約な封建的主従関係。起源はローマの恩貸地制(荘園制みたいなもの)とゲルマンの従士制。騎士。
農民の扱いは低く農奴とされ貢納や賦役の義務あり。領主は有力者で土地は荘園という。
三圃制を用いる。

 

 

教皇権絶頂
教皇大司教→司教→司祭→修道院長→一般聖職者という階層性組織が確立。十分の一税等、腐敗が広がる。改革を求める中心がクリュニー修道院教皇グレゴリウス7世。ハインリッヒ4世との叙任権闘争が勃発し破門にする。カノッサの屈辱。許しを得て復帰してグレゴリウス7世を追い出す。
教皇の地位絶頂は1200頃の神聖ローマ帝国皇帝インノケンティウス三世。「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」

 

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史古代編(後藤武士)6」

秦の始皇帝から漢、南北朝まで

秦の統一
商鞅の変法(改革)。度量衡の統一。恨みを買って処刑される。諸子百家縦横家蘇秦による六国同名で秦に対抗。張儀は秦と同盟を提案して統一に向かう。

秦の始皇帝
西周以来の統一王朝。史上初めて皇帝を名乗ったから秦の始皇帝。郡県制。法家を李斯を丞相(行政の最高責任者)焚書・坑儒。法家以外禁止。書物を焼き儒者を生き埋め。万里の長城。 前221統一。不老不死を求めて水銀を飲んで死去。宦官は権力欲に執着するようになる。二世皇帝が兵馬俑で有名な始皇帝陵を作る。

陳勝呉広の乱
史上最初の農民の反乱。遅刻は死罪なのでどうせならと反乱。陳勝の名言「王侯将校いずくんぞ種あらんや。」同じ人間という意味。「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」小物には大物の気持ちが分からないという意味。

項羽と劉邦
楚のエリートと漢のヤクザ。項羽劉邦を取り逃がす鴻門の会。劉邦の軍師が韓信。「韓信の股くぐり」。項羽の軍師、范増が死んで民衆の支持を失い劉邦に敗れる。「四面楚歌」死を覚悟して寵愛する虞美人の行く末を憂いた詩を唄う。

漢 前202〜後220
劉邦の皇帝の名は高祖。長安。郡国制。匈奴冒頓単于に負ける。諸侯の反乱、呉楚七国の乱。平定したのは武将、周亜夫。

武帝
最盛期の皇帝、武帝遊牧民族の大月氏と協力して匈奴を挟み撃ちするために張騫を派遣。匈奴に10年捕まり、大月氏に1年捕まる。連携は出来なかったが東西交易の発達に貢献。汗血馬がいるとの報告で大宛に軍派遣。拡張政策で朝鮮の楽浪郡を支配。財政悪化で塩・鉄・酒を専売に。均輸と平準の政策。儒学が官学となる。儒学者董仲舒。以降は儒学が必須になる。基本経典、五経。選挙の元、郷挙里選。歴史書司馬遷史記

漢王朝を中断させた王莽の新。農民の反乱、赤眉の乱
王道パターン。英雄が王朝を打ち立てる→ボンクラ世襲皇帝→外戚や宦官に実績を奪われ、内部の権力争いや皇帝の女遊びで国が乱れる→農民や宗教団体が反乱し、地方有力者が挙兵→反乱は鎮圧するが有力者により新王朝設立。の無限ループ

後漢
劉秀が漢復興。王莽前を前漢。劉秀以後を後漢。皇帝の名を光武帝。洛陽。漢書、編纂者は班固。弟が班超で武将。歴史書は前代の王朝をまとめる。マルクス・アウレリウス・アントニヌス大秦国王安敦で登場するのが後漢書
宦官による貴族や外戚を弾圧する運動が党錮の禁太平道という宗教団体による反乱が黄巾の乱。「蒼天已に死す。黄天まさに立つべし」我々の時代だの意。後漢滅亡。

魏晋南北朝時代
前半三国志三国時代。後に魏、晋、南北分裂の時代へ

三国時代
曹操の魏、劉備の蜀、孫権の呉。蜀は1番弱かったが、関羽張飛諸葛孔明の活躍で勢力を対等にする。蜀と呉の連合軍は魏を追い詰めるが魏は盛り返して曹丕が魏の初代皇帝になる。曹丕後は司馬仲達が支えて蜀を滅ぼすが晋に滅ぼされるその後は
華北:五胡十六国北魏北朝
江南:東晋→宋、斉、梁、陳の南朝

魏晋南北朝時代の文化
仏教広まる。仏図澄や鳩摩羅什や法顕。
敦煌や雲崗に仏教遺跡。同時に道教も広まる。教団を組織した寇謙之
貴族などに広まった哲学談義が清談。代表するのが竹林の七賢。書の王羲之や絵画のこうがいし。

朝鮮半島高句麗新羅百済三国時代朝貢外交。

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史古代編(後藤武士)5」

中国古代文明
黄河や長江で文明。前5000年頃に稲作の跡。彩文土器の仰韶文化。黒陶の竜山文化。

 


実在した証拠がない伝説の王朝
殷 前16世紀~前11世紀
遺跡の殷墟。甲骨文字。青銅器。邑(ゆう。城郭都市)が集まって出来た邑制国家。

 

周 前11世紀~前256
封建制度地方分権。知事に諸侯を任じ封土を与える。血縁関係重視の掟、宗法。
異民族の犬戎に追われるまでを西周。遷都後を東周と呼ぶ。諸侯を抑えられなくなって、群雄割拠の春秋戦国時代(前770~後221)
周を尊ぶ諸侯の尊皇攘夷の主張を束ねるのが覇者。

 

春秋時代
斉の桓公 宰相の管仲は幼なじみの鮑叔に嫌な事をされても憎まず推挙した事から変わらない友情を表す「官鮑の交わり」
秦の穆公、宋の襄公、晋の文公
楚の荘王 愚か者のフリをして家臣を見極める「鳴かず飛ばず」の語源。今は意味が変わる。「鼎の軽重を問う」「絶纓の会」
呉王闔閭、呉王夫差、越王勾践
「臥薪嘗胆」「呉越同舟

 

戦国時代
秦かそれ以外。鉄製農具で農業発展、商業重視で貨幣経済も発展。青銅製の貨幣など。

 

諸子百家

儒家儒教
孔子。戦国時代の人年長者を敬う、礼儀、道徳など。「論語」大切なのは仁義礼智忠信孝悌。後の江戸時代、南総里見八犬伝の徳目。
孟子性善説。王道政治(武力によらず徳で国を治める)を説く。

荀子性悪説。現在の儒教にも影響。
墨家墨子。兼愛=無条件の愛。

 

道家老子荘子老荘思想無為自然。禅に似ていて特別な教えが必要ないため民衆に普及していく

法家。法が必要。商鞅、韓非、李斯
陰陽家。鄒衍。陰陽五行説。後の中国に大きな影響。

兵家。戦争について論じた孫子の兵法。

名家。公孫竜。

農家。

 

 

 

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史古代編(後藤武士)4」

インダス文明 前2300~1800頃
ドラヴィダ人がおこした。代表遺跡はハラッパーとモヘンジョダロ
代わってアーリア人聖典リグ・ヴェーダ
現在まで影響を及ぼすヴァルナ制(カースト制)4階級:司祭ヴァラモン、戦士や貴族クシャトリヤ、農商人ヴァイシャ、奴隷シュードラ プラス職業別の差別がある。この下にも不可触賤民がいる。このシステムを維持する宗教がバラモン教ヴェーダ時代と呼ばれる。

ガウタマシッダールタ
都市国家対立の時代、覇権を争うコーサラ国とマガダ国の間に釈迦族がいてガウタマシッダールタ青年がいた。人間が生きる上で生じる四苦八苦から逃れるために妻子を捨てて出家。瞑想、沐浴、スジャータから乳粥、ブッダガヤの菩提樹の下で座禅などで悟りを得てブッダとなった。八正道を勧める。これが弟子に広まり仏教になる。無常。

ジャイナ教
クシャトリヤ出身のヴァルダマーナが説く。仏教との違いは苦行をすすめ極端な不殺生をといたこと。現在でも450万人の信者。
バラモン教の内部改革がウパニシャッド哲学。梵我一如。心も身体も1つにして輪廻転生から解脱する。これが後にヒンドゥー教に。

統一国家成立
初めての統一国家アレクサンドロス後の前220頃のマウリヤ朝創始者チャンドラグプタ。最盛期アショーカ王は仏教を保護。仏典結集。

クシャーナ朝
月氏の支配から独立したインダス川流域王朝が、クシャーナ朝(1~3世紀)最盛期カニシカ王、仏典結集、ローマや漢との交易が盛ん。

仏教
釈迦入滅100年後に大乗仏教上座部仏教に分裂。大乗仏教が菩薩(悟りを得るために修行している人)信仰に。仏像等のガンダーラ美術。

北のクシャーナ朝、南のサータヴァーハナ朝。4世紀にマウリヤ朝以来の統一国家グプタ朝(320~550)、最盛期チャンドラグプタ2世。バラモン教保護。サンスクリット語。文学カーリダーサ、仙人に育てられた娘と王の恋。二大叙事詩マハーバーラタヒンドゥー教聖典ラーマーヤナ。マヌ法典。ゼロの概念。美術はグプタ様式、ナーランダー僧院。

グプタ朝後の北インドにハルシャ王のヴァルダナ朝。仏教保護、留学生集う。最遊記三蔵法師こと玄奘三蔵や義浄。ナーランダー僧院はハーバード大学みたいな。
シヴァ神ヴィシュヌ神などのヒンドゥー教の神々への帰依を説くバクティ運動が仏教やジャイナ教を飲み込みヒンドゥー教一色にする。

東南アジア
ベトナムの地。扶南→カンボジア→アンコール朝(アンコールワット)、チャンパー
ミャンマーの地、パガン朝
ベトナム北部、大越国 李朝→陳朝
インドネシアの地、シュリーヴィジャヤ王国
ジャワ島、シャイレーンドラ朝

本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史古代編(後藤武士)3」

ローマ帝国

 

もともと住んでいたエトルリア人を追放してラテン人が共和制都市国家ローマを建設。
初期は貴族と平民に身分の差があり、貴族が元老院を独占。コンスル=執政官、ディクタロル=独裁官 重装歩兵で平民が発言権を高める。平民会、護民官設置。十二表法。コンスルの一人を平民にするリキニウス・セクスティウス法。ホルテンシウス法。これで内部闘争は終わって次は対外戦争へ。

 

分割統治。フェニキア人のカルタゴポエニ戦争カルタゴの英雄ハンニバルはアルプス越え。大スキピオのカウンター。小スキピオがトドメで終わり。地中海全域ほぼ制覇。奴隷ラティフンディウム。身分の差拡大。

 

内乱の1世紀
共和制ローマ崩壊の時代。グラックス兄弟の改革は失敗。
平民派マリウス✖️vs閥族派スラ○
パンと見世物を要求する市民にグラディエーター。剣奴スパルタクスの反乱はクラッススと軍人ポンペイウスにより鎮圧。これにカエサルで第一回三頭政治ガリア遠征。「ガリア戦記クラッスス戦死で、ポンペイウス✖️vsカエサルルビコン川をわたる。「賽は投げられた」

 

クレオパトラ
逃げてきたポンペイウスを追ってきたカエサルを味方にして敵対勢力を一掃。カエサルの様々な改革。ユリウス暦=ほぼ今の暦グレゴリウス暦カエサル元老院に暗殺される。「ブルータス、お前もか」はシェイクスピアの戯曲にあるだけ。

第二回三頭政治
官僚的部下レピドゥス、軍人アントニウス、養子オクタヴィアヌスレピドゥスが死んで二人の争いに。クレオパトラと手を組んだアントニウスのエジプト✖️vs ローマ軍のオクタヴィアヌス○ アクティウムの海戦。クレオパトラが死んだと聞いて自殺。それを聞いたクレオパトラも自殺。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のモチーフ?
オクタヴィアヌスカエサルの反省から元老院を尊重。アウグストゥスの名をもらう。前27年。帝政ローマ初代皇帝。以降100年をパックスロマーナ。

 

キリスト教成立
イエス・キリストの処刑と復活。新約聖書

ローマ最盛期
キリスト教への大迫害5代皇帝ネロ。666もネロから。
最大の繁栄期、五賢帝時代。96〜180
ネルヴァ、トラヤヌス(領土最大)、ハドリアヌスハドリアヌスの長城)、アントニヌス・ピヌス(貧民救済、財政改革)、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(哲人皇帝、ストア派を学び自省録を書く)
属州反乱。ササン朝ペルシア台頭。ゲルマン人の侵入。コロナートゥス制。

 

帝国の分裂
ディオクレティアヌスによる分割と専制君主世。
コンスタンティヌスによるキリスト教公認。公会議で正当はアタナシウス派に。現在のカトリックにつながる。コンスタンティノープルに遷都。
背教者ユリアヌス。
フン族に追われゲルマン人の大移動が始まる。
テオドシウスによりキリスト教の強制。ローマ帝国を二分割。東ローマ(後のビザンツ帝国1453まで)と西ローマ。

ローマの文化
ギリシャの模倣。コロッセウム。カラカラ浴場。アッピア街道「すべての道はローマに通ず」万民法=ローマ法 ユスティニアヌスによるローマ法大全
叙事詩 ヴェルギリウス「アエネイス」
散文 キケロ
歴史 ポリビオス 今にも通じる政治制度の循環
リヴィウスタキトゥス、プルタコス
天文 プトレマイオス