本のまとめ「読むだけですっきりわかる世界史中世編(後藤武士)1」

中世ヨーロッパ社会

 

ゲルマン人の大移動
アジア系遊牧民族フン族の西への移動によりゲルマン人が押し込まれて4世紀後半大移動を始める。東ゴート人は東欧あたりに移動、西ゴート人はフランス南部トゥールーズあたりで西ゴート王国を建国。ヴァンダル人は北アフリカヴァンダル王国、ブルグント人はフランス南部にブルグント王国(後のブルゴーニュ)、フランク人はフランスあたりにフランク王国ランゴバルド人は北イタリアにランゴバルド王国(ロンバルディア)、アングロサクソン人がイギリスでアングロサクソン七王国を建国。
アッティラ率いるフン族西ローマ帝国に敗れる。476ゲルマン人傭兵オドアケルによって西ローマ帝国は滅びる。東ローマ帝国にも手を出そうとしてきたので東ゴートのテオドリック大王に討伐してもらって東ゴート王国を建国させてやる。
これらのゲルマン人王国もフランク王国を除いて⒍7世紀に滅亡。
フランク王国は正統派のアタナシウス派への改宗が大きかった。メロヴィング朝のクローヴィスが統一するも宮宰のカロリングカール・マルテルイスラム帝国をトゥール・ポワティエ間の戦いで勝利すると実権を握る。息子の小ピピンからカロリング朝になる。教皇の要請でランゴバルドを討って寄進する教皇領が始まる。

 

 

教会の発展拡大
教会五本山はローマとコンスタンティノープル以外がイスラム領土となり2つの争いがおきる。西=ローマ・カトリック教会、東=ギリシャ正教会。6世紀にベネディクト派修道院グレゴリウス1世によりゲルマン人の多くが改宗する。
偶像崇拝を巡り東西対立。東ローマ帝国皇帝レオン三世により聖像禁止令。

 

 

カールの戴冠
ピピンの子、カール大帝ローマ教皇との結び付きを強め西ヨーロッパをフランク王国として統一。ローマ教皇レオ3世が帝冠を与えたのがカールの戴冠。ほぼ遠征して戦いの人生。文化への理解。ラテン語の普及など、カロリングルネッサンス

 

 

フランク王国分裂
カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世の4人の息子による争いで三分割。ヴェルダン条約により、ロタールの中部、ルートヴィヒの東、シャルルの西に分かれる。メルセン条約により東、西、イタリアになる。

三王国その後、神聖ローマ帝国
東はカロリングの血途絶えて、フランケン公コンラート1世→ハインリッヒ1世(マジャール人との休戦、ロンギヌスの槍をもらう)→オットー1世(マジャール人を討ち英雄とされ帝冠をうける。)神聖ローマ帝国962~1806 東フランク王国=神聖ローマ帝国
西はカロリングの血が987から途絶えてユーグ・カペーのカペー朝フランス王国と呼ばれるようになる。
イタリアは1番早くカロリングの血が途絶えて都市の強い国となり統一が遅れる

 

 

ノルマン人の攻勢
ゲルマン人より500年遅れて9世紀頃南下してロシアあたりにノヴゴロド国862~1478とキエフ公国9~13世紀
ノルマン人ロロがフランスに侵入、単純王シャルル三世はノルマンディー地方を与えてノルマンディー公国設立。
イギリスは9世紀にサクソン人のウェセックス王国イングランド統一。ノルマン人(デーン人)も侵攻してきて撃退したのがアルフレッド大王。1016デーン人クヌート王がイギリスを支配。一時、アングロサクソン系が復活するも1066ロロの流れのノルマンディー公ウィリアムがノルマン王朝を打ち立てる。征服王。フランス王の家臣ノルマンディー公がイギリスを支配したので現在に及ぶライバル関係に。
両シチリア王国フィンランド以外の北欧。

 

 

中世ヨーロッパ封建社会
双務的契約な封建的主従関係。起源はローマの恩貸地制(荘園制みたいなもの)とゲルマンの従士制。騎士。
農民の扱いは低く農奴とされ貢納や賦役の義務あり。領主は有力者で土地は荘園という。
三圃制を用いる。

 

 

教皇権絶頂
教皇大司教→司教→司祭→修道院長→一般聖職者という階層性組織が確立。十分の一税等、腐敗が広がる。改革を求める中心がクリュニー修道院教皇グレゴリウス7世。ハインリッヒ4世との叙任権闘争が勃発し破門にする。カノッサの屈辱。許しを得て復帰してグレゴリウス7世を追い出す。
教皇の地位絶頂は1200頃の神聖ローマ帝国皇帝インノケンティウス三世。「教皇権は太陽であり、皇帝権は月である」